城郭紹介・僅かな面影の柳川城

今日の城郭紹介は福岡県柳川市本城町にある柳川城跡だ。江戸時代には柳川藩の藩庁が置かれた場所であったが、明治5年1月18日の火災で櫓一基、土蔵、厩、3城門を残して焼失し「不明の失火」とされているが、実際のところ攘夷派の旧藩士による明治新政府への反乱拠点と成る事を恐れた柳川藩最後の家老、立花壱岐の指示により天守を炎上させ不平士族の士気を萎えさせる目的で用意周到に準備し火薬を使って爆破させたとの事で、当日、火消し組の出動は止められ消火活動は殆ど行われなかった史実から、故意的な放火が真実の様だ。江戸時代の藩主は田中氏2代、立花氏12代と続き明治維新を迎えている。かつての城跡の殆どが現在の柳川高等学校と柳城中学校のキャンパスに成り、一部の天守台、石垣(明治7年の台風で決裂した海岸堤防の護岸用に石垣の殆どが運び去られている。)、堀が柳川城跡の遺構として残っている。画像は本丸跡に建つ石碑と柱標で、この石碑の建つ小さな丘の裾に僅かながら石垣が残っているが、妻とこの城を訪れた折、少々寂しい思いがしたものだ。