大切な1品/生野鉱

今日は私の大切な1品、生野鉱の紹介。この標本は、49年も前の生野鉱記載当初に原産地の生野鉱山金香瀬坑より、先輩コレクターが直接採集された標本の一部を約20年程前に頂いたもので、石英母岩中の自然蒼鉛を取り巻く形で銀白色金属光沢の強い結晶が沢山観察出来る。20年前と言えば、ちょうどビスマスを含む金属鉱物全般に興味を湧かせた頃で、それを知った先輩クレクターが、ならばとマイコレ中より、桜井鉱と共に抜き出してくれた。その後、鉱山長ととても親しかった別の先輩コレクターから頂いた貯鉱場出しの数点の鉱石中にも、この標本に近いグレードの生野鉱や桜井鉱、自然蒼鉛、褐錫鉱を沢山見出す事が出来たが、頂いた時の感動が非常に強かった為、深い思い入れと成り、今も大切なコレクションの1つと成っている。

■三日月城(乃井野陣屋)
この城(陣屋)の起こりは、元禄十年に美作津山藩四代藩主・森長成が死去し、二代藩主・森長継の第24子で家臣と成っていた関衆利が末期養子に立てられた。同年、将軍拝謁の為、江戸への出府途中に、伊勢国桑名にて幕政を批判して発狂してしまった。酒の席での事と家臣は弁明をしたが、桑名藩より詳細な報告が幕府に入り裁定により改易となってしまった。この時、隠居で有った二代藩主・森長継が存命だった上、またその子も多数居た為、聞こえおぼしき家柄で有り、森家が断絶する事が忍びないと特別に再勤を命じられ、分家であった美作津山新田藩主・森長俊が、播磨国佐用郡揖西郡、宍粟郡65ヶ村1万5千石に領地替えされ入封した。元禄十一年に長俊は領地入りし、候補地の乃井野村に藩庁の陣屋と家臣屋敷の建設に着手した。元禄十三年にはほぼ完成し、以後播磨三日月藩森家は九代続き、俊滋の治世に明治維新を迎えている。画像は上記画像の生野鉱原産地の生野鉱山と明延鉱山の帰り道立ち寄って撮影した陣屋跡の面影を残す石垣だ。現在この石垣上に物見櫓、中御門、通用御門が復元されているとの事。